万葉集(1〜4516番歌)を大体2年掛けて読んだ。
八割方は万葉仮名の原文にも一応目を通した。一見ただの漢字の羅列から古語とは言え日本語が立ち上がってくるのは不思議なもので、読むのは大変だが面白い。
さて、全20巻のうち、1~16巻は大体、歌の内容により雑歌、相聞、挽歌などに分類されている。
対して、最後の17~20巻は大伴家持の歌日記となっている。分類無しに基本的に大伴家持の生活の時間軸によって歌がならべられているのである。(状況を説明する漢文の題詞と左注も重要)
そこに大きな断絶がある。
時代的にはほぼ巻1〜16の歌の時代が済んで巻17〜18の時代が始まる。
私は巻1から順を追って読んでいったのだが、巻17になると突然感じが変わるとともに、巻1~16まで永遠に増殖するかのようだった歌のカオスが急に遠ざかって空に浮かぶ星雲のように輪郭をあらわして完結するように感じた。
笹の葉は み山もさやに さやげども 我は妹思ふ 別れ来ぬれば(巻2 柿本人麻呂)
笹の葉は 山全体がさやさやと 風にそよいでいるが、私は妻を思う 分かれてきたので
ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ(巻3 大津皇子)
(ももづたふ)磐余の池に 鳴いている鴨を 今日だけ見て 死んでいくのか
謂わば、もう手の届かない大空の星達であり、過ぎてしまった歌の黄金時代でもある。 対して巻17〜20は散文的で地面みたいな感じがするのだ。 地面があるから大空もある。
和歌表現がそうストレートには出来なくなりつつある時代になった。
春の野に 霞たなびき うら悲し この夕影に うぐひす鳴くも(巻19 大伴家持)
春の野に 霞がたなびき もの悲しい この夕暮れの光の中に うぐいすが鳴くよ これは名歌だが、やや平板に感じられる歌もありつつ、なにかそれはそれで現実世界としての手応えがあって面白く読めた。 そこに、編纂の天才的な営為があるのではと感じた。巻1から続けて読んで、巻16〜20に来てある種の小説を読むような展開の面白さと凄さを感じたのである。
そして万葉集最後の1首は、因幡守に左遷された家持が新任地で詠んだ唯一の歌である正月の宴での妙に明るい雰囲気の歌である。
新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事(よごと)(巻20 大伴家持)
新しい 年の初めの 初春の 今日は降る雪のように 積もれよ良い事
この歌のところで、また別の次元にふいに顔を出し、巻1〜16も巻17〜20も全てが家持の夢だったみたいな感じになった。大空も地面も全て夢。左遷先因幡国庁での宴席が本当の現実。再び、見事な小説的展開。
ここで大伴家持が万葉集全体を仕切っていたんだなあと強く思った。
段階的に多くの人の手によって成立したとしても現在ある万葉集の形、世界をつくったのは家持だったのだと。
以上、記憶力が衰えつつある64歳初学者の万葉集感想文であり、独りよがりの解釈はもとより事実誤認が有る可能性大をおことわりします。
角川選書万葉集の基礎知識、小学館日本古典文学全集解説を参考にしました。
歌と現代語訳は小学館日本古典文学全集から引用いたしました。
本文は岩波新日本古典文学大系中心と小学館日本古典文学全集で読みました。
岩波新古典文学大系より
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